（詳細な思い出話）喜助の話はよく条理が立っている。ほとんど条理が立ち過ぎていると言ってもいいくらいである。これは半年ほどの間、当時の事を幾たびも思い浮かべてみたのと、役場で問われ、町奉行所（まちぶぎょうしょ）で調べられるそのたびごとに、注意に注意を加えてさらってみさせられたのとのためである。

そう思うとまた、俊一、俊一と呼ぶカヨの声が甦って、十和子はテーブルに肘をついたまま両耳を押さえる。

一句が目に残って、しばらく院長の存在を忘れていた。

いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。

もうずいぶん前のことだが、記憶は鮮明だ。

別れた人なぞは杳（はる）かにごま粒ほどの思い出となり果てた。

思い出は、もう夢よりも淡い過去の水沫の中に消えている

白いペンキのにおいがした。鼻の奥がほんのり痛むようなそのにおいは、Ｍ病院と強く結びついて、大人になってもなかなか消えなかった。ペンキのにおいをかぐと必ず、Ｍ病院を思い出した。

（記憶喪失）生まれ変わったようなまなざしでまだよくわからない、なじみのないこの世界にひとり立ったとき、何もかもが不確かで手探りの状態の不安な新しい私

（素晴らしい思い出）振り返ると、その時間も、いつの間にか、見違えるほど色鮮やかに、陰翳豊かに彼の過去を染め直しつつあった。