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過去にまっすぐつながっている時間の感覚の帯に、一ヶ所なぜかひどく霞んだ部分があって、音はそこにひっそりと存在している。ある時ふと気が付いたら、わたしはもうそれを聞いていた。いつ、どこからやってきたのか、分らない。透明なシャーレの培養基の中に、突然微生物が精巧な斑点模様を描き出すように、音はどこからともなくやってきた。《…略…》音が聞こえる時わたしの心は常に過去の特別な場所に向かっているということだ。そして微かな胸のきしみを伴っている。
小川 洋子 / ドミトリイ「妊娠カレンダー (文春文庫)」に収録 ページ位置:0% 作品を確認(amazon)
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心の傷・トラウマ
失われた記憶がよみがえる
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前後の文章を含んだ引用
ドミトリイ わたしがその音の存在に気付いたのは、たいして昔ではない。ならば最近かというと、そうはっきり言い切ることもできない。過去にまっすぐつながっている時間の感覚の帯に、一ヶ所なぜかひどく霞んだ部分があって、音はそこにひっそりと存在している。ある時ふと気が付いたら、わたしはもうそれを聞いていた。いつ、どこからやってきたのか、分らない。透明なシャーレの培養基の中に、突然微生物が精巧な斑点模様を描き出すように、音はどこからともなくやってきた。 それを聞くことができるのは、ある限られた瞬間だけだ。いつでも好きな時にというわけにはいかない。最終の路線バスの中から街の光を眺めている時のこともあったし、さびれた博物館の入り口で憂鬱そうにうつむいた女の人から入場券を受け取った時のこともあった。現われ方は不意できまぐれだ。 ただ一つ共通しているのは、音が聞こえる時わたしの心は常に過去の特別な場所に向かっているということだ。そして微かな胸のきしみを伴っている。そこに建っているのは、古い学生寮だ。鉄筋コンクリート三階建ての質素なデザインで、決して大きくはない。くすんだ窓ガラスやカーテンの黄ばみやひびの入った外壁の様子から、その古さが伝わってくる。学生寮......
単語の意味
斑点(はんてん)
胸(むね)
斑点・・・ぶつぶつ模様。たくさん散らばった小さな点。
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タクシーのラジオから流れてくるその音楽を耳にして、すぐに「これはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だ」とわかったのだろう。そしてどうしてその音楽が、私の身体に激しい個人的な揺さぶりのようなものを与えたのだろう。そう、それはとても個人的な種類の揺さぶりだった。まるで長いあいだ眠っていた潜在記憶が、何かのきっかけで思いも寄らぬ時に呼び覚まされたような、そんな感じだった。肩を掴まれて揺すられているような感触がそこにはあった。とすれば、私はこれまでの人生のどこかの地点で、その音楽と深く関わりを持ったのかもしれない。その音楽が流れてきて、スイッチが自動的にオンになって、私の中にある何かの記憶がむくむくと覚醒したのかもしれない。
村上 春樹 / 1Q84 BOOK 1 amazon
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