風のぬるい春の晩が――妙に彼の血を駆り立てた。

三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重（ひとえ）桜のこずえには南に向いたほうに白い花（か）べんがどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら見え出していた、その先には赤く霜枯れた杉森（すぎもり）がゆるやかに暮れ初（そ）めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。

あたたかい雨が街を包む、煙った春の夜

心地よい春の宵の風に当たる

智恩院（ちおんいん）の桜が入相（いりあい）の鐘に散る春の夕べ

月が、うらうらと靡（なび）いた霧の中に、まるで爪の痕かと思うほど、かすかに白く浮んでいる

雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪（ゆが）んだ月に、指を円めて覗（のぞ）き眼鏡していると、黒子（ほくろ）のようなお月さん！

研ぎ出したような月

（都会の夜空）都市の世俗的な明かりが、いつものように星の姿をかき消していた。空はきれいに晴れていたが、いくつかのとくべつに明るい星が、ところどころに淡く散見できるだけだ。しかしそれでも月だけはくっきりと見えた。月は照明にも騒音にも汚染された空気にも苦情ひとつ言わず、律儀にそこに浮かんでいた。目をこらせば、その巨大なクレーターや谷間が作り出す、奇妙な影を認めることもできた。

釜のごとく澄んだ三日月

月の光が、熱のない光線を入り江の両岸に、隈なく降り濺（そそ）ぐ

月がオレンジのように黄色い

雨戸の隙間から忍び込んできた月の光

雲は次々に南に向けて空を吹き流されていた。どれだけたくさん流されても、あとからあとから雲は現れてきた。遥か北方の地にそれらの雲を無尽蔵に供給する源があるに違いない。頑なに心を決めた人々が、灰色の厚い制服に身を包んで、そこで朝から晩までただ黙々と雲を作り続けているのだ。蜂が蜜を作り、蜘蛛が巣を作り、戦争が寡婦を作るように。

月の光のとどかぬ暗い細い家の路地から小さい白い犬が飛び出して来て急に月光の下に出て来たのできらりと光ったように見え

それは恋によろしい若葉の六月のある夕方（ゆうがた）だった。

いかにも初夏らしく澄みわたる空

淡く春の夕闇がただよう

私の仕事初日を祝うかのように桜の花が咲き

梅雨時の桜の葉のうっとうしく重なったような蓊鬱