医員の一人（ひとり）が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気（いき）がつまるほどの思いをした。そのくせ目は妙にさえて目の前に見る天井板の細かい木理（もくめ）までが動いて走るようにながめられた。神経の末梢（まっしょう）が大風にあったようにざわざわと小気味わるく騒ぎ立った。心臓が息気（いき）苦しいほど時々働きを止めた。

手術室は思っていたよりもずっと素っ気ない小部屋で、壁も天井も床も機材も全部セメント色だ。

（チョコレート嚢胞の手術）指先でつまんで、口の中で溶かしたくなるような言葉だ。 　しかし、メスの刃の下からあふれ出てきた液体は、言葉のかわいらしさとは正反対に、吐き捨てたくなるような不快な色をしている。血液が腐敗した色だ。ビニールの手袋の上にとろりと広がって、今までに溜め込んできた体温や体臭を一遍に放り出している。その傍で卵巣はすっかり萎びている。

手術室は九階にあって、専用のエレベーターでしか降りられないようになっていた。エレベーターの扉が開いた瞬間、そこには病棟や研究棟とはどこか違った寒々しい雰囲気が広がっていた。まずエレベーターホールには何もない。ソファーも公衆電話もベンジャミンの鉢植もない。頼りないくらいにすっきりしている。そして暗い。ホールの隅は薄い闇にぼやけている。電灯の半分はスイッチを切られている。

胃の手術をして以来、夫のたべものはずいぶん変った。それまで好きだったシチューや煮こみ料理は、あまり食べなくなった。

民族間のいたましい虐殺

やはり死は、厳かで静かで、じんと心の底に沈み込んでゆく重さを持っていた。

笛の音が晴れわたった空に鋭く響いている。打ち鳴らされる太鼓も聞こえる。 　夏祭りのはじまりだ。

脱兎のごとく帰る

平常の巴里の優雅さを埋めかくして居る今日の祭の馬鹿騒ぎ

トイレの入り口に〝採尿後はよく洗って戻しておいてください〟と書いたラベルが貼ってある。病院というところは、やたらに何にでも貼り紙がしてある。

（心療内科）心の医療現場

（伸子の父の病の、）恐ろしい時は過ぎ去った。いろいろな人々が彼の寝台の周囲に出入りしはじめた。笑声もした。茶器が運び込まれる。伸子は、最も恐怖や不安や必要に満ちていた時は自分達から遠のき、鳴りを鎮めていた世間が、再びさり気なく姿を現したのを見る、一種の清新さと皮肉とを、日常生活の復帰から感じた。

（卵巣摘出）不透明な白いビニールの手袋をはめた手が、何本も何本もその肉体の上で交差する。内臓は赤く充血して、鮮やかで、きれいでさえある。そして奥の方から卵巣が引っ張り出される。重さを量るように、一人の医師がそれを掌にのせる。卵巣は、震えるように小さく揺れる。彼女がこれを抱え込んでいた時の痛みが、全部この中に詰まっているかのように、表面がピンと張り詰めて、緊張している。医師がメスの先を表面に突き立てると、一筋の裂け目が走る。

まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。