パリでも夜中にパトカーのサイレンが鳴り響くことは珍しくなかったが、そういう時には、あのバグダッドの夜の静寂が不意に耳の奥で広がった。

思い出が頭のなかを走り、語りつくせないほどかけめぐる。

（時々不意に幼い頃亡くなった、唯一の母の思い出が蘇ってくる）仮説的なへその緒で結びつけられている。彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。《…略…》その情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻（はんすう）し、そこから大事な滋養を得ている。

（好きだった元カレのことを）あれこれとたずねられて胸のなかにまるで映画のシーンのように黒崎の立ち姿や表情が浮かび上がってくる。その瞬間の甘苦い震えが十和子は嫌ではなかった。

走馬燈のように、あらゆる思い出が脳裡を去来した。

脳裡に宿った俤（おもかげ）が日を経るにつれて鮮やかになりこそすれ、少しも薄れようとしない

その声は今でも耳の奥に響いている。

映画のハッピーエンドのように、その光景は静かにフェイドアウトしていく。

（ここ数日の出来事をぼんやりと思い出していると、）現実がだんだん溶解して闇の中に溶けて吸い込まれていってしまうような気がした。いろんな物がその本来の形を失って混ざりあい、意味を失ってひとつのカオスとなる。《…略…》溶けてひとつの丸いカオスの球になっている。まるである種の天体みたいなかたちに。

口惜しい想い、嫉妬の記憶が、裾野に霞のかかった春の山の風景さながらに回想される