整頓せずにつめ込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ。夜が近づくにつれ下がってきた部屋の温度や、紙ばさみに目を落としている絃の、まだ会社での緊張が解けていない肩が、なぜか耐えられないほどに切ない。 鍋が煮えるまで、またはグリルで魚が焼けるまでの、何もすることがないこの空白の時間を、私はうまく過ごせない。おかえりなさいから夕食を食べるまでの、日常の隙間の四十分が人を絶望させる力を持っているなんて、絃に会うまでは知らなかった。台所から漂う魚の焼けるいい匂いが部屋に満ち、日が落ちて暗くなってきた外に対して蛍光灯の放つ光は嫌味なくらい隅々まで部屋を白く照らし、ソファの黒革は太ももの裏に冷たい。帰ってきてから絃がほとんどしゃべっていないことがどうしても気になる。思わず口を開いてしまう。
綿矢 りさ「しょうがの味は熱い (文春文庫)」に収録 ページ位置:0% 作品を確認(amazon)
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気まずい
倦怠期
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前後の文章を含んだ引用
しょうがの味は熱い 整頓せずにつめ込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ。夜が近づくにつれ下がってきた部屋の温度や、紙ばさみに目を落としている絃の、まだ会社での緊張が解けていない肩が、なぜか耐えられないほどに切ない。 鍋が煮えるまで、またはグリルで魚が焼けるまでの、何もすることがないこの空白の時間を、私はうまく過ごせない。おかえりなさいから夕食を食べるまでの、日常の隙間の四十分が人を絶望させる力を持っているなんて、絃に会うまでは知らなかった。台所から漂う魚の焼けるいい匂いが部屋に満ち、日が落ちて暗くなってきた外に対して蛍光灯の放つ光は嫌味なくらい隅々まで部屋を白く照らし、ソファの黒革は太ももの裏に冷たい。帰ってきてから絃がほとんどしゃべっていないことがどうしても気になる。思わず口を開いてしまう。「絃、どうかしたの」「なに?」 紙ばさみから目を離し私を見る目つきは、仕事のことで頭がいっぱいなせいか、どこか鋭い。「なんだか沈んでるみたいだから」「そうかな。まあ疲れてるけど」「会社でなにかあったの」「ちょっと」 絃はまた会社から持ってきた仕事に戻る。今日は休日出勤だったのにまだ働いている。なにを......
単語の意味
切ない(せつない)
憂鬱(ゆううつ)
嫌味(いやみ)
蛍光(けいこう)
太股・太腿・太もも(ふともも)
切ない・・・悲しさや寂しさや恋しさで、胸がしめつけられる気持ちのこと。やりきれない思い。やるせない思い。
憂鬱・・・気分が落ち込んだ状態。重苦しい気分。メランコリー。
嫌味・・・人を不快にさせる言葉やしぐさ。皮肉。嫌がらせ。
蛍光・・・1.蛍の光。ほたる火。
2.(物理学)ルミネセンスの一種。ある物体に光やエックス線を当てたとき、その物体が別の光を出す現象。また、その光。
2.(物理学)ルミネセンスの一種。ある物体に光やエックス線を当てたとき、その物体が別の光を出す現象。また、その光。
太股・太腿・太もも・・・足の、膝(ひざ)より上の太い部分。股の内側の膨らんだところ。足の付け根から膝までの部分。大腿(だいたい)。上腿(じょうたい)。
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初江はリビングルームの気まずさを避けるように声と同時に腰をあげ、一歩二歩とベッドのほうへ歩み始めた。
阿刀田 高 / 来訪者「ナポレオン狂 (講談社文庫)」に収録 amazon
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俺と女の体臭で醱酵させたあの部屋の無気力な温もり
松本 清張 / 真贋の森「松本清張ジャンル別作品集(3) 美術ミステリ (双葉文庫)」に収録 amazon
女との間に醱酵した陰湿な温もり
松本 清張 / 真贋の森「松本清張ジャンル別作品集(3) 美術ミステリ (双葉文庫)」に収録 amazon
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(怨みや憎しみは)もうとぐろをまいてしまってからだの一部に化成してしまっている
和田伝 / 沃土「和田伝全集 第2巻」に収録 amazon
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彼女は蒔野を愛していた。折々、胸を押し潰されるほどに苦しい恋の衝動も経験していたが、それと同時に、彼女は蒔野のことが、何と言うのか、人間としてすっかり好きになっていた。 彼と向かい合っていると、何も特別なことのない単なる日常会話が、人生の無上の喜びと感じられるような一瞬がしばしば訪れた。それは、ほとんど不可解とさえ思われるほどの、何かしら奇跡的なことだった。
平野 啓一郎「マチネの終わりに (文春文庫)」に収録 amazon
(二人の)指と指とは時計の歯車のように深く組み合わされて離れません
永井荷風 / 踊子 amazon
邦彦が唇を離すと、まち子は熱い息を吐いた。
宮本 輝「道頓堀川(新潮文庫)」に収録 amazon
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