（遺産相続三万円という安値にショックを受ける）「尋恵さんに三万円……」 　ここに来て自分の名前が出てくるとは思わず、尋恵は一瞬、何も頭に浮かばなかった。三万円という言葉が尋恵の中に入って膨張していく。それと同時に、心の中にあった潤いのようなものが急速に乾いていくのを感じた。

彼の冷淡そうな皮肉、醜い自暴自棄の言葉が、その時の顔つき目つきと一緒にこの鼓膜に今聞くようにまざまざ響いて来る。

母の言葉が油みたいに膜になってうすく私の全身に広がっていく。

「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。

光代はうっすらと積もった雪に足跡をつけながら、通りの向こうのコンビニへ向かった。《…略…》「あんたの気持ちだけで、その人のこと縛りつけたらいけんやろ」 　たった今、珠代に言われた言葉が、地面に残る足跡と一緒についてくる。

瞼の裏を、幼い日の姿が次から次へと行列をつくって通って行く

頭の中に過去を再現する

酸が増した胃液のように、苦い思いが意識に分泌される

記憶はいつかチリのように消える。

なつかしいダラットの生活が、織物の飛白（かすり）のように、一つの模様になって記憶のなかに焼きついていた。