しまりのないべたべたしたマーラー

（遠くから聞こえる音楽）外気の中に立つと、音楽の響きは家の中にいたときよりさらにくっきりとした。メロディーを聞き取ることはできないが、リズムの調子からギリシャの音楽であることはわかる。その音には、生の楽器特有の鋭角的で不揃いな響きがあった。

胸に漂っている情感の水のようなものを重く冷たく凍らせる歌

（教会）群衆が会堂に満ち、 跪いて祈っていた。声なき音楽が、彼等のうなだれた頭の上を渡るらしかった。

手が震える。必死にイアフォンのコードを引っ張り耳に突っ込む。麻薬中毒がドラッグを求める姿と似ていた。不安感が自分を押し潰す前に、クスリを投与しなくてはいけない。クスリは耳から注入する。ウォークマンの再生ボタンを押した。 　病院の名は、「ビートルズ」だ。この場合の薬剤師はきっと、「ジョージ・ハリスン」で、薬の名前は、「HERE COMES THE SUN」だった。 　ボリュームを上げ目を閉じ、じっと聴く。「It's All Right」と繰り返される。豊田はそれを自分の中で何度も繰り返した。「大丈夫だ。大丈夫だ。It's All Right」と繰り返し、不安感を取り除いていく。二回同じ曲を聴く。

燐太郎は食事の後片付けの手をとめ、話を聞く顔になった。

クラクションの鋭い音があたりの空気を震わせる

（受話器の雑音）線香花火のような雑音をずっと鳴らし続けている

あたりには物音ひとつなく、草の葉が日の光を浴びて呼吸する音までが聞こえてきそうだった。

大きな声が、桟橋（さんばし）からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。