おれは十何年間も彼女に実は自分の夢を喰わされていた

吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧（ちえ）も出なかった。それほどに無邪気な可憐な恋でありながら

胸はしめつけられるように苦しくなる。でもそれは心地の良い苦しさだ。いくらでも耐えられる苦しさだ。

伸子の眼の前に、佃の顔が浮び上った。だんだんそれは大きくなって来た。佃は、彼の、見馴れた古くさい山高帽を挙げ、伸子を見、近づき、よき微笑を洩した。伸子は、眼を瞑り、熱く、寒く、体じゅうで顫えながら、幻の佃を抱きしめた。彼の頬の感触……彼の唇――柔かい髪を撫でるとき掌につたわる、その手触り、伸子は呻くように彼の名を呟いた。

（好きになった人を話題にしない）蒔野は、ほどなく洋子のことを何も言わなくなった。それは、関心を失ったからではなく、彼女への思いの中に、何か気軽には人前に曝せない感情が籠もるようになったかららしかった。

胸が締め付けられて息もできないほど

ただ怖いのは、柳の枝が 陽 にさらされては次の瞬間大風に揺れるように、桜が咲いては散るように、時がたっていくこと。 　西日のさしこむこの部屋に、寝転んでビデオを見ている彼の背に、この空気に別れを告げて夜がやってくること。ただそれだけのことがいちばんかなしい。

「恋は終わるんだよ。いつか必ず。終わらない恋なんか、あり得ない」

やさしくて穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。《…略…》あたたかくて親密な気分になっていて、そのことを何かのかたちで残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。

彼はその人に 惹きつけられた。普段何気なく美しい人を見る時とは、もっと深い何かで惹きつけられ、彼の胸は波立った。それはそれ程にその人が美しかったと云うのとも 異う。彼は自分ながら 初心者 らしい心持になって、もうその方を見られなかった。そして少し息苦しいような幸福感に捕えられながらその前を通り過ぎた。