電話に出た若い男に名前を告げると、「ちょっとお待ちください」という声とともにオルゴールの「カノン」が流れ出した。

「待ってね。」 　保留の音楽が、 焦りをかきたてた。

（保留音）受話器の向こうから途切れ途切れのエーデルワイスが聞こえてくる

（クレームの電話が保留になる）責任者の方から折り返し電話させていただきますので」 「いいえ。このまま待ってますから、今、お願いします」 〈今〉を強調してきっぱり言い放つ。 　待っている間、走る電車に乗っているときのようなニュートラルな安定を感じる。《…略…》保留のメロディに合わせて鼻歌を歌う。このままいつまでも保留の状態でいたい。

「尾崎さん」と別の看護婦を呼んだ。あとは遠くなった。

翌週、僕らは別れた。電話で五分だけ話して別れた。まるで役所の手続きのように、事務的な会話だけで僕らは終わった。僕と彼女は千時間以上、電話で話してきた。千時間の電話で積み上げてきた関係を、僕らはたった五分の電話で終わらせてしまった。 　僕らは、電話ができることで、すぐつながる便利さを手に入れたが、それと引き換えに相手のことを考えたり想像したりする時間を失っていった。電話が僕らから、想いをためる時間を奪い、蒸発させていったのだ。

「くっそう、このボロ携帯。とっとと鳴らないと塩漬けにするわよ」 　忠実な犬が主人の恫喝に怯え従うように、美咲の手の中で、携帯が震えた。

（嫌悪感を抱く相手と電話）気が変になりそうだ。受話器から伸び出た見えない触手が十和子に絡み付いてくる。

久しぶりにきいた沙耶の声は、仕事相手とでも話すように、はきはきとしている。髪を 搔 き上げるそぶりが目に見えるようだ。

電話のベルが十二回鳴ったが、僕は受話器をとらなかった。ベルが鳴りやんだあとも、その余韻は部屋の淡い夕闇の中にちりのように漂っていた。