一里も離れている「隣りの人」

汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。

「ここはまだ東京ですか？」僕はそう訊ねてみた。 「もちろん。そうじゃないように見えますか？」 「世界の果てみたいだ」

丘の上は一面の蜜柑（みかん）山、実のなったレモンの木が、何か少女時代の風景のようでとてもうれしかった。

とにかく、春の勢いはすごい。これまではモノクロにくすんでいた画面に、一瞬で色がつくみたいだ。どんな特撮技術を使っても、この鮮やかな景色の変化は表現できないだろう。 　変化は景色だけじゃなく、においにも音にも表れる。冬のあいだは硬く冷たく流れる川が、草木が芽吹きはじめるのとほぼ同時に、さらさらと優しい音に変わる。水は澄みわたって、甘い香りがする。金色に輝く川底の砂に、透明なメダカの群の影が映っているのを発見し、俺は思わず声を上げてしまった。 　なんかこう、春はすべてにメリハリがつくって感じだ。繁ばあちゃんの大群に包囲されてるのが冬だとしたら、百人の直紀さんがバイクに乗って、山を駆けめぐってるのが春だ。張りがあって騒々しい。

氷屋が砂漠の緑地のようにわずかに涼しく眺められる。

生命が地表に顔を出し、若い実を結び、人々がほっと一息ついた頃

六月の林の梢が湯船に映りこむ昼過ぎの静かさ

街路が夏の朝特有の清々しさに包まれる

庭のあちらにまばゆい夏の雲が立ち上がり、そのために蜂の羽や毛がするどい金の針のように光る

空は梅雨の到来をにおわせるような、のっぺりとした灰色の雲に覆われ

花火のように刹那（せつな）刹那

ちゃらちゃらとした涼しい音のする玉のれん

リンと一つ、風鈴のような音

車内はむせるように暑くて、涼しげに飛び去ってゆく景色とかみあわなかった。頭がまひしたようで、うまく考えられなかった。

まっ黒にしげった森のなかをひとすじの路が縫うようにうねって

入道雲のむくむくした塊の覆われてる地平線

鋼鉄のような川石

雪どけで、道が餡（あん）このようにこねこねしている

山のひだひだから煙のように白い靄がたちのぼり