一九七三年の秋には、何かしら底意地の悪いものが秘められているようでもあった。まるで靴の中の小石のように鼠（人名）にははっきりとそれを感じ取ることができた。

烈しい胸騒ぎと不安とを感じる。

さざ波のような嫌な予感を感じつつ

襟元（えりもと）に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。

そこにあったのは、海と空と、強烈な別れの予感だった。この集いに来週や、さ来週はなくて……それぞれの道がああして雲からもれる金の筋みたいに、甘く遠くまっすぐに別れている。

葉子は貞世の後ろ姿を見るにつけてふとその時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。《…略…》貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。

「地道が盗聴器を仕掛けたんだ」 　あ、と雪子は声を上げそうになる。 　瞬間的に、バッグに入れてある携帯電話のことが頭に浮かんだ。 　答えを見せられた途端に、試験問題の解法が分かるようなものだった。

水島の電話のソフトな口調と、なんとしてでも押し入ろうとする昨夜の男の強引さとが、同じもののネガとポジのように十和子のなかで結びついてしまう。

そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。

それから僕は象の話をした。どうして急に象の話なんかになってしまったのか、僕にはそのつながりを思いだすことができない。たぶん何か動物のことを話していて、それが象に結びついてしまったのだろうと思う。

（漠然とした不安）えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧（おさ）えつけていた。焦躁（しょうそう）と言おうか、嫌悪と言おうか

心配が重く心にのしかかってくる

心臓がどんどん膨らんで肋骨を突き破るんじゃないかと思うほどドキドキする

不意を打たれた彼の心の中から恐怖の収縮が走って行った

心臓が波打ってる

恐怖に満ちて蒼くこわばった顔

惰気

野ねずみのように怯える

彼ら二人とはいっしょでなかった。安田は横須賀線の電車で去ったのだ。ここにも彼の不在の証明がある。のみならず、安田は、その翌晩にもそのつぎの晩も、「小雪」に遊びに来て姿を見せている。何か念を押しているようなやり方ではないか。

それは──昼下り、突然やって来た。 　うとうとしていた私を、いきなり 鞭打ったのだ。 　胃のあたりに第一撃があり、たちまち胸の方にこみ上げる不安のようなものにあえいで目を開けると、その訳の分らないさしせまった感覚はすでに全身を圧倒して、私は大きく口をひらいていた。 咄嗟とっさ の配慮で声を出すまいとしていた。つき上げて来る焦燥の感覚に 抗って、ただ夢中で何度も大きく空気を吸いこんだ。

（思い出せそうだが、）記憶はすぐに混濁し、虚無の中に呑み込まれていった。

「イノウエ殿。聞かれたことがおありかな。御奉行さまだ。いずれ、パードレ殿もこのお方に 直々 のお調べを受けられよう」 　イ・ノ・ウ・エという言葉だけが、通辞のポルトガル語の中でまるで生きて動いているように司祭の耳に聞え、彼は体を一瞬、震わせた。

（死に際、走馬灯のように）頭に穴が開いたみたいに記憶が溢れ出てくる

飛行機ががくん、と揺れてはっと目覚めたとき、突如、 「栄子」 　が飛び込んで来た。その匂い、画面、感触、すべての情報が私になだれ込んで来た。 　私はどぎまぎして、いても立ってもいられなくなり、頭がくらくらした。飛行機はすぐにもとの平和な飛行に戻ったが、私の心臓のどきどきはおさまらなかった。 　さっき飛び込んで来た栄子の目、髪、後ろ姿、声、断片として、総体として。そしてつぎつぎと飛び込んでくる二人の思い出。生々しく、鋭く残っていた。じっとしていられなくなって、意味もなくトイレに立った。 　銀色の個室で、息を整えた。 「シャイニング」の原作にこういうシーンがあった。主人公の少年が助けを求めて思念を飛ばすのだ。呼んだのか？　と思った。栄子の身に何かあったのだろうか？ 　そうしているうちにやがて、ショックがおさまってきた。

僕にはその女を思いだすことができなかった。まるでキリコの絵の中の情景のように、女の影だけが路上を横切って長くのびていた。