人前では考えられもせぬような思いが、旋風（つむじかぜ）のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。

その情景は布団に入ってもなかなか眠れない沙里の頭の中に、いつの間にか侵入してきて、以来、どんなに考えまいとしても、必ず寝る前に出てきてしまう。

吐き気のように口もとにこみあげてくるこの想念

暗（やみ）のなかに仄（ほの）白く浮かんだ家の額（ひたい）は、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを感じた。

とりとめのない考えを、そこいらに飛んでいる黄色い蝶のようにさまよわせる

これまでの人生で誰かとそうして笑いあった、いくつもの場面が浮かんできて、突如いい気分になった。

逃げられてしまうのか、と僕は呆然としながら、思った。そしてその時、理由は判然としないが、頭の中に、大学に入学してからの記憶が、一気に噴き出した。焦ったがために、誤って記憶の箱を引っくり返したのかもしれない。様々なシーンが立て続けに、勢い良く飛び出す。

白いペンキのにおいがした。鼻の奥がほんのり痛むようなそのにおいは、Ｍ病院と強く結びついて、大人になってもなかなか消えなかった。ペンキのにおいをかぐと必ず、Ｍ病院を思い出した。

心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。

死ぬ瞬間に頭を飛び交う様々なシーン

こんな事をふと思ったのもしかし束（つか）の間（ま）で、その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。

ものごとがひとつに結びつき始めているという手応えがあった。点と点のあいだに線が一本ずつ引かれていく。少しずつ構図が見えてくる。

地下から石油を掘り当てるように気付く

実の父親が息子の命まで奪うとは考えられん」 「確かにそうだな。プロ野球の選手の練習を子連れで見に行くほど、須藤は息子を可愛がっていたんだからな」 　白石の呟きを耳にし、小此木は踏み出しかけた足を止めた。 　プロ野球の選手── 　どこかで見た覚えがある。

その時、生まれて初めて経験する、ある不思議な瞬間が訪れた。無残に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本の真っさらな道が現われた。道の先には光がともり、私を導いていた。その中へ踏み込み、身体を浸してみないではいられない気持にさせる光だった。今自分は、閃きという名の祝福を受けているのだと分かった。

敏感に感じ取る

労苦

「それで、当然のことながら、お前はその考えには反対しているというわけか」 　溝口は状況判断の鋭いところをみせた。

全知全能の者に見破られ

二人の不自然なやり取りに秘密を隠していると直感する

「さて、どうしてやろうか」響野が顎を触る。

彼の考えに傾き始める

さかんに頭を振り、目に浮かんだシーンを追い出そうとする

すっと膜が一枚剥げ落ちたように

大きなポスターが貼り出されていたからだ。 「なんだこりゃ」 　寝不足の頭に、その意味はワンテンポ遅れて染み込んでくる。

（昔のことを思い出そうとする）時の流れを暗示するような、軽い沈黙がしばしあった。

（消え入りそうな記憶）もう随分と崩れやすくなってしまっている彼女の記憶

頭にこびりついている

どこかで聞いたことのある名前だった。急いで、頭の中の記憶をひっくり返し、それですぐに探し当てた。

「さて、記憶とはあやふやなものです」響野はつづける。「脳の中にノートブックがあり、中を覗いてみると、思い出すべきことが日本語で丁寧に描かれている。大事なところにはマーカーまで引かれている。そんなことは決してありません。記憶というのはしょせんは脳の中のシナプスの伝達活動によって生じるものです。シナプスの電位変化が記憶となるのです。何年経っても同じ形状で残っている保証はどこにもないでしょう。それこそ記憶とは、思い出そうとしている今この瞬間の自分によって新たに創り出された、『記憶と思われるもの』にすぎないのです。創造物です。まさに、『歴史』が、権力者によって捏造された共通認識であるのと似ています。記憶は生のまま氷温保存されるわけではないのですよ」