自殺ってやつは、あとに残る者へ自分の中身をそっくり預けて、脱殼になることじやないか。
三浦哲郎 / 川べり
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(自殺を思いとどまる)結局、彼女が拳銃の引き金を引くことはなかった。最後の瞬間に彼女は右手の人差し指に込めた力を緩め、銃口を口から出した。そして深い海底からようやく浮かび上がってきた人のように、大きく息を吸い込み、それを吐き出した。身体中の空気を丸ごと入れ換えるみたいに。青豆が死ぬことを中断したのは、遠い声を耳にしたからだった。そのとき彼女は無音の中にいた。引き金にかけた指に力を入れたときから、まわりの騒音はそっくり消えていた。彼女はプールの底を思わせる深い静寂の中にいた。そこでは死は暗いものでも怯えるべきものでもなかった。胎児にとっての羊水のように自然なものであり、自明なものであった。悪くない、と青豆は思った。ほとんど微笑みさえした。そして青豆は声を聴いた。 その声はどこか遠い場所から、どこか遠い時間からやってきたようだった。声に聞き覚えはない。いくつもの曲がり角を曲がってきたせいで、それは本来の音色や特性を失っていた。残されているのは意味を剥ぎ取られた虚ろな反響に過ぎない。それでもその響きの中に、青豆は懐かしい温かみを聴き取ることができた。声はどうやら彼女の名前を呼んでいるようだった。 青豆は引き金にかけた指の力を抜き、目を細め、耳を澄ませた。その声の発する言葉を聞き取ろうと努めた。しかし辛うじて聞き取れたのは、あるいは聞き取れたと思ったのは、自分の名前だけだ。あとは空洞を抜けてくる風のうなりでしかなかった。やがて声は遠くなり、更に意味を失い、無音の中に吸い込まれていった。彼女を包んでいた空白が消滅し、栓がとれたみたいにまわりの騒音が一挙に戻ってきた。気がついたとき、死ぬ決心は既に青豆の中から失われていた。
村上 春樹 / 1Q84 BOOK 3 amazon
顔を上げ、視線の先には赤信号がありました。それから、首を右に向けたので、トラックが来ているのも認識していたはずです。にもかかわらず、最後の気力をふりしぼるかのように、勢いを付けて、体を前に放り出すように飛び出していったのです。あっ、と思った時には間に合いませんでした。
湊 かなえ / ポイズンドーター・ホーリーマザー「ポイズンドーター・ホーリーマザー (光文社文庫)」に収録 amazon
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同じクラスの女の子の父親の見舞いに行って余ったキウリをかじった。すると彼もそれを欲しがってぽりぽりと食べた。でも結局その五日後の朝に彼は亡くなってしまった。僕は彼がキウリを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今でもよく覚えている。人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ
村上 春樹 / ノルウェイの森 下 amazon
轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯口髭 だけ残っていた
芥川竜之介 / 歯車
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