「さて、記憶とはあやふやなものです」響野はつづける。「脳の中にノートブックがあり、中を覗いてみると、思い出すべきことが日本語で丁寧に描かれている。大事なところにはマーカーまで引かれている。そんなことは決してありません。記憶というのはしょせんは脳の中のシナプスの伝達活動によって生じるものです。シナプスの電位変化が記憶となるのです。何年経っても同じ形状で残っている保証はどこにもないでしょう。それこそ記憶とは、思い出そうとしている今この瞬間の自分によって新たに創り出された、『記憶と思われるもの』にすぎないのです。創造物です。まさに、『歴史』が、権力者によって捏造された共通認識であるのと似ています。記憶は生のまま氷温保存されるわけではないのですよ」

私はそんなことさっぱり覚えていなかった。別人の話かと思ったくらいだ。

どうしても、覚えのある気はするが、記憶をつかむ努力に疲れて、眼を反（そ）らした。

遠い祖先の代から連綿と意識下に伝わってきたような記憶

（記憶は）まるで遠くでゆらめく蜃気楼のようにつかみ所がない

（自宅と同じ間取りの家）頭の中にある自分の家の情報と伊吹の家の見知らぬ飾りやカレンダーなどが合致せず、本当にお酒でも飲んだみたいに頭がくらくらしていた。

残像のように消えずにいた。

枕に頭をつけて眼を瞑った。思考は初め断片的であったが、それが連なり、絶ち切れ、また繫がっては伸びた。俺はその細工に陶酔した。

（「目を開けた。」までがよみがえった光景→我に返る）携帯がない。かかってくるはずの携帯がない。 　光代は悲鳴を上げそうになって目を開けた。目の前には雨に濡れた車道が伸び、その先に同じように雨に濡れた警察署が建っている。

僕が大学の四年間で経験してきた、下らない出来事や些細な場面があっという間に、まるで、敷かれた布の下から水分が一斉に滲み出るように、湧いた。