川のこちら岸には高い欅（けやき）の樹が葉を茂らせている。喬（たかし）は風に戦（そよ）いでいるその高い梢（こずえ）に心は惹（ひ）かれた。ややしばらく凝視（みい）っているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲（とま）り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓（たわ）んでいるのが感じられた。 「ああこの気持」と喬は思った。「視（み）ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」《…略…》病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距（へだた）りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。

落ち着いてゆっくり考えよう、そう思うそばから思考が風に吹き散らされてしまう。

（昼間に見た紫色のあんのアンパンを思い出す）どこかであやめの花を見たような紫色の色彩の思い出が瞼の中を流れる。

閃くように思い出す

そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。

鼻歌をうたっている余裕もなさそうだ。

預言者のように確信に満ちて話す

頭の中を整理しようとした。机の抽斗（ひきだし）の中身を整理するように。しかしうまく整理はつかなかった。いくつかのものの位置を入れ替えただけだ。消しゴムのあったところにペーパークリップを入れ、ペーパークリップのあったところに鉛筆削りを入れ、鉛筆削りのあったところに消しゴムを入れる。混乱のひとつのかたちが、別のかたちに変わっただけだ。

離れていてもお互いのことが、なんとなく分かる。

恍惚（うっとり）していた伸子は、ノックの音で我に返った。