夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。

（深夜に天井のハエを眺めていると）私の心はそうした深夜を感じる。深夜のなかへ心が拡がってゆく。

（夜更けの）露路の上には盛んに白いものが往来している。

無事に帰れますようにと私は何かに祈らずにはいられなかった。

人通りの絶えた四条通は稀（まれ）に酔っ払いが通るくらいのもので、夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。両側の店はゴミ箱を舗道に出して戸を鎖（とざ）してしまっている。所どころに嘔吐（へど）がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。喬は自分も酒に酔ったときの経験は頭に上り、今は静かに歩くのだった。

（銀座の人波）むらな雨雲のように押し合って塊ったり、意味なく途切れたりしつつ、大体の上では、町並の側と車道の側との二流れに分れて、さらさらと擦れ違って行く。すると、それがいかにも歓（よろこ）びに溢（あふ）れ、青春を持て剰（あま）している食後の夜の町のプロムナードの人種になって、特に銀座以外には見られぬ人種になって、上品で綺羅（きら）びやかな長蛇のような帯陣をなして流れて行く。

ひんやりした空気が歓楽街の臭気を濁らせたり消したりしている

イルミネーションにまみれた闇

（遠くに見える歓楽街の光）あんな 眩 ゆい、物寂しい光の 坩堝るつぼ の中で生きているのか。《…略…》そこから見ると、道頓堀は小さくはかなく、遠い辺境の地であるかのように映る

見渡すかぎり色と光とに溢れた不夜城の賑わい

安手の芳香剤のにおいが漂うホテルの部屋で、水島に抱かれ水島の声を聞いているこのときがむしろ、遠い記憶の一場面であるような感覚に陥る。

（古いお好み焼屋の店内は食べ終わった後の）戦争の後のような鉄板を、窓からの午後の陽が照らしていた。

混じりあってそのひとつひとつの本来の意味を喪失してしまった人々のざわめきや、どこからともなく次々にあらわれて耳をとおり抜けていくこまぎれの音楽や、ひっきりなしに点滅をくりかえす信号とそれをあおりたてる自動車の排気音、そんな何もかもが空からこぼれ落ちてくる無尽蔵のインクのように夜の街に降りかかっていた。夜の街を歩いていると、そのようなざわめきや光や匂いや興奮の何分の一かは本当は現実に存在しないものであるように僕には思えた。それらは昨日や一昨日や、先週や先月からの遠いこだまなのだと。

検事と弁護士がとめどなく屁理窟を並べ立てる。

景色を掻き消すような勢いで、目の前を列車は走り抜ける。轟々と流れていく。

夕暮になるとこの医学部の建物や病院の窓々にはうるんだ灯がともり、港にはいる満艦飾の船のように見えた

外の闇は少しずつ薄れ、粒子の粗い景色が広がっていく。暗くて形しか分からなかった家の細部――窓や屋根についているアンテナの輪郭なんかが、徐々に姿を現わし始める。

夕暮の色が、次第に足元からせまってくる廊下

ここいらは、川幅の中程まで進んでもせいぜい膝くらいまでの深さしかない。流れも穏やかだ。しかし夜の川は不意に底なしに深まりそうで、黒い水が急に重たくなって、体に絡みつき沈んでいく、そんな想像をさせる。

日が暮れ、焚火の火の赤さが増した。